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アトピー特効薬 [コラムエッセイ]

「アトピー特効薬」


私はいわゆるアトピーである、
と医者からいわれている。


脂漏性皮膚疾患、慢性蕁麻疹ともいわれている。


すでに15年、
医者に通い飲み薬と塗り薬を貰っているが、
一向に良くならない。


本日、まったく新しい医院をたずねた。


過去に5回医者をかえているが、
皆口々に
「この病気は治りません」
という。


いままでの経過と、服用してきた薬を説明した。


またしても医者の答は、
「この薬では治りません」だった。


おや、まてよ、
この病気ではなく、この薬と言った。


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よく聞いてみる。


いまの薬では良くならないと言っている。


ステロイド系の飲み薬を飲めば、
もしかしたら良くなるかもしれない、
という。


ステロイド系の薬は副作用があって良くない、
と聞いているので
「ステロイドだけは、飲みたくない」
と答えた。


医者は、
それでは治らない。


いま治せるのはステロイド系薬剤しかない、
という。


特効薬である。


劇薬ともいえる。


私にとってはイチかバチかの勝負だ。


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しかし、15年間かゆみと闘ってきて、
最近は以前より増してかゆくなってきている。


できればかゆみから逃れたい。


やってみることにした。


かみさんは心配している。


これで駄目なら、
いよいよ副作用の少ない薬で、
多少のかゆみは我慢しながら一生つきあわざるを得ない。


5日間の投薬治療だ。


特効薬は危ないし、
賭けみたいなものだが、
すがりつきたくなるのも人情だ。


人間、
生きてゆくうえで、
余分な煩わしさはない方が良いに決まっている。


でもトライして、駄目ならあっさり諦めるしかない。


ましてや、
うまい文章を書いたり、
素晴らしい小説を書く特効薬はない。


毎日、毎日、こうして書くしかないのだろう。




私がこの記事をかいたのは、
15年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの388日目の記事である。

執筆年月日1999・05・31
ブログアップ日2014・05・31





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【後 述】

この結果は明日お知らせします。

エスプレッソ、語源はイタリア語の「急行」からきているようだ [コラムエッセイ]



最近、
エスプレッソを
飲ませてくれる
レストランや
コーヒー店が増えている。


粉末のコーヒー豆に、
蒸気を通してつくった
濃いコーヒーを、
ごく小さなコーヒーカップに入れ、

強い苦味を楽しむものだが、
まだまだ日本では、
ポピュラーとは言えない。


本日来社した、
2人のフランス人と
昼食を共にした。


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食後、
彼らはエスプレッソを注文した。


私も好きなので、
同様にエスプレッソを注文。


卓を囲んだ日本人のうち、
エスプレッソは私を含めて2人、

ホットコーヒーは2人、

アイスコーヒー、レモンティーは
各々ひとりだった。


まあ、
少しづつエスプレッソを
飲む人が増えてはいるようだ。


元はイタリア語の

「急行」

という意味からきているようだ。


たぶんコーヒー豆に、
一気に圧搾蒸気を
すところから、

「急行」

というイメージになるのだろう。


たまたま先々週来社した
フランス人もまた、
エスプレッソが大好きだった。


フランス人は
ワインとエスプレッソを好むようだ。


朝食は非常に軽く、
一切れのパンとコーヒー。


パンをコーヒーに浸し、
口に運ぶ人もいるそうだ。


これが一般的な
フランス人の朝食メニューだ、
と聞いた。


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昼食はワインとコーヒーを飲みながら。


そして彼らにとっても、
一日の食事量としては
一番多い夕食はゆっくりと。


私はむかし仕事でフランスへ行き、
パリから一時間くらいの
洒落たレストランで
夕食をとったことがある。


ほんとうにゆったりした気分で
食事をするのが
良く分かった。


時間をかけ
話をしながらワインを愛で、
チーズを好み、
エスプレッソを楽しむ。


豊さを感じる至福のひとときだ。


日本でエスプレッソに
似たような飲み物は、
残念ながら私は知らない。




私がこの記事をかいたのは、
14年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの753日目の記事である。

執筆年月日2000・05・30
ブログアップ日2014・05・30





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【後 述】

日本人にとっては、
エスプレッソはあまり
メジャーにはならなかったようだ。

しかし興味本位から飲んで、
愛飲家となった人はいるようだ。

忍び寄る足音は、退社を促すリストラ [コラムエッセイ]

「忍び寄る足音は、退社を促すリストラ」


一年近く会っていない知人に連絡しようと、
私は彼の勤務先に電話をした。


応対に出た女性が
「去年退社されました」、
と答えた。


――彼はできる人だから、
   ヘッドハンティングにでもあったかな――
と思った。


彼は優秀で人柄も良く、
語学が堪能だ。


年齢も50をすぎたばかりだ。


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私は退社際に、
今度は彼の自宅へ直接電話をした。


7時前だったので、
まだ帰宅していないと思ったら在宅していた。


久しぶりの声は、
「リストラにあった」
というものだった。


何かおかしい。


会社や組織にとって有用で優秀な人が残らず、
上にへつらう人が残っている。


そう思えて仕方がないのだ。
要するに上がやりやすい人だけを残している。


改革してゆくには、
トップのやりやすい人を、
周辺におきたがるのは致し方ない。


スピードを上げて一気にやらなければ、
改革などできない。


そういう意味で、
忠誠を誓うような人間の方がやりやすいことはたしかだ。


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ただ、ここに大きな落とし穴がある。


トップが非の打ち所がないほどに優れていて、
失敗がまったくないような人ならそれでも良い。


しかしそんなトップなどやたらにいないのだから、
できるだけ優秀な人間を残すべきなのだが。


しかしあまりにも優秀であると、
自分の立場が危うくなるため傍に置きたくない。


トップの保身だ。
そうなったら組織はおしまいだ。


ところが現実は、
そのように全く奇異なことをしているのが実態である。


私が考える理想的な組織や会社は、
小人数で、
職人気質集団のようなものだろう。


互いを尊重して、
全員がスポーツマンシップを持った
プロフェッショナルでなければならない。


そうでないと、
精神衛生上は良いが、
経済的には破綻してしまうからだ。


今は、
私にも忍び寄る足音が聞こえる。




私がこの記事をかいたのは、
14年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの752日目の記事である。

執筆年月日2000・05・29
ブログアップ日2014・05・29





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【後 述】

当然の如く、その会社は数年後に倒産した。

ずさんな管理者がトップスリーの中にいたことが
不渡手形を出す原因になってしまったようだ。

免 許 証 [コラムエッセイ]

「免 許 証」


世の中には、
免許証といわれるものが数知れないほどある。


身近なもので、
車の運転、
弁護士、
看護婦、
調理師、
教師、
薬剤師、
社会労務士、
医師、
様々な書士、
電車の運転士、等々。


いわゆる国家試験や専門団体が認証する、
公にその資格を認められた免許はごまんとある。


日本だけに限らず、人間お墨つきには弱い。


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ほんとうに免許証だけ持っていれば、
安心していられるのか。


最近の医療事故などをみると、
とてもそうはいえない現状だ。


しかし、
あくまでも実力より免許取得だ。


免許証がないと法によって罰せられる。


例えば、
国家試験の医師免状を持たない人が患者を診察すれば、
当然罰せられる。


無免許で車を運転すれば罪になる。


数ヶ月前、
数十年に渡り、
自宅から会社まで、
無免許運転で通勤していた人が捕まった。


発覚しなければ良いというわけではないが、
この事件に象徴されるように、
免許証を持たずしてやれることはある。


そしてそれが、
ただ単に免許証を持っていない、
という以外の何物でもない、
ということも。


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私は決して、無免許でも良いなどとは思っていない。


しかし免許を与えたら、
後は形式的に更新してゆくだけで良いのか、
と思う。


特に人命を預かるような人が、
長い間仕事から離れ、
実際に不適格なケースもあり得る。


また逆に、
相応の実力を持っていながら、
免許を持てない人に対しては、
免許を与える方法はないのか。


ペーパードライバーと、
前述の無免許の人とどちらが安全か、
と問われたら、
つね日ごろ車に乗っている人の方が安全だ、
と答えるのは車を運転した経験者なら解ると思う。


これらは過激な極論かもしれないが、
スタートであるべき免許の取得が、
目的となりがちな社会に、
私は危惧を覚えるのだ。




私がこの記事をかいたのは、
14年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの751日目の記事である。

執筆年月日2000・05・28
ブログアップ日2014・05・28





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【後 述】

日本の社会は、
関所を通れば一安心
といったところがあるのは否めない。

本当は、関所を通って初めてスタートなのだが、……

乗り捨て御免 [コラムエッセイ]

「乗り捨て御免」


10年くらい前、
私の最寄り駅周辺では、
自転車の乗り捨て御免が増え、
地域住民の社会問題になっていた。


「乗り捨て」と書いたが、
捨てて行くわけではない。


実際は、ところかまわず置いて行くのである。


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みかねた市が、
何ヶ月か継続して掃討に乗り出した。
もちろん市はすでに、
駅周辺に有料の駐輪場を作っていた。


私が駅前の店で用を足そうと、
一時的に置いた自転車まで持って行こうとしたので、
係員と言い争いになるほどの徹底振りだった。


成果あって、
しばらくは駅前駐輪する自転車は皆無になった。


当時、駅の出入り口はひとつしかなかった。


数年後、駅が改装され、
奇麗になり、出入り口も三ヶ所に増えた。


あっという間に、自転車の乗捨て御免が再開された。


同様に、私が勤務する会社近くを流れる川のほとりも、
自転車、バイク、スクーターの乗捨て場になっている。


駅に近いため、付近住民が置いて行くのだろう。


普段水嵩は数十㌢だが、
大雨になると、
数メートルの深さになるため、
川のまわりには、網のフェンスが張ってある。


その川に、投げ込まれた自転車を、
ときどきみることができる。


たぶん、酔漢が酒の勢いで邪魔な自転車を、
二メートルのフェンスなどもろともせずに
投げ込むのだろう。


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先日、その中にスクーターをみた。
自転車では飽き足らず投げ込んだのだろうか。


いくら酔った勢いがあろうとも、
男性一人でスクーターを持ち上げ、
高いフェンス越しに投げ込むのは大変だ。


人の迷惑も省みず、
自転車やスクーターを乗り捨てる輩も輩だが、
それをかなりのエネルギーを使って、
川へ放り込む輩も輩だ。


世の中、自分勝手な人間も多いが、
随分と暇な人間も多いようだ。




私がこの記事をかいたのは、
15年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの384日目の記事である。

執筆年月日1999・05・27
ブログアップ日2014・05・27





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【後 述】

面白いと言って良いのか、
人間とは隙間ができると自転車を置きたがる。

誰かが置けばすぐにそこは自転車置き場になる。

今を大事に、過去を捨て、未来に希望をもて [コラムエッセイ]

「今を大事に、過去を捨て、未来に希望をもて


今この時を、
精一杯大事に生きることが重要なのを、
ほとんどの場合意識してはいないだろう。


聖人君子でもない限り、
時の一瞬、一瞬を、
意識的に生きている人など皆無だろう。


一般的に私たちのような凡人は、
実際死に直面でもしない限り、
変わらぬ日々の暮らしに意義など見出せない。


それでいいのだとは言わないが、
ややもすると人生の95%は、
惰性に身を任せているのかもしれない。


せいぜい人生の節目節目で、
ほんの一瞬、
現実に生きている意義を感じ取ったりするのが
精一杯だろう。


特に安定した環境の、
日本のような国では、
益々そういう傾向が激しくなるだろう。


そして驚くほど変化のない現実に辟易し、
逃避する人も増え、
自立できない人たちをカモに、
新興宗教や占いは繁盛するだろう。


意識改革などと言って、
会社や組織は従業員をあおる。


いまのような不景気な時代では、
サラリーマンは表面的には逆らえない。


意識改革のできない奴は叩きつぶせ!
とまでは言わないが、
実質的には似たような、解雇だ!
という手段で、従うことを強制する。


意識改革とは名ばかりで、
単なる価値観の見直しにすぎない。


価値観が異なる者の方向性を、
組織の目標にあった価値観に矯正するだけだ。


それは往々にして、
個人が持つ人生の価値観とはズレている。


今を大事にしたら、
サラリーマンをして働いてなどいられない。


食べなければならないからこそ、
わが人生の大部分を働くことに費やさざるを得なくなる。


何の、誰の人生か、
と言っても、
これも歴とした人生だ。


今を大事にすることは、
でき得る限り、
自分の可能性に賭ける時間を増やすこと、
と私は考える。


特に50すぎたら、意識的にそうすべきだ。




私がこの記事をかいたのは、
14年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの749日目の記事である。

執筆年月日2000・05・26
ブログアップ日2014・05・26




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【後 述】

過去を捨て、
未来に希望をもて!

そのスタートが今なのだ。

第六感といわれるものが存在する、と思われている [コラムエッセイ]

「第六感といわれるものが存在する、と思われている」


概念的には理解できるが、現実に存在するものだろうか。


五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)に対する
五官(目、耳、鼻、舌、皮膚)は、
存在を具体的に感じることができる。


逆に器官が壊れれば、
感じることもできなくなるわけだから。


しかし、
第六感というのは、
器官の存在がはっきりしないだけに信じる以外ない。


目に見えないものを捉えるわけだから、
器官も目に見えないのか。


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たぶん、第六感は頭の中にあるのだろう。
五感すべてで感じたことを、
さらに高い次元へモード変換したとき、感じるのだろう。


現実的には、的外れや勘違いがほとんどで、
第六感でピーンときた、
といっても実は何の根拠もないことだった、
ということは結構多いものだ。


それでも第六感や空想的なことが、
結構支持されるのは、
ひとつには束の間の現実回避を、
回避している感覚なしで入り込めることにある
のかもしれない。


また第六感は、霊感のように、
特殊な人にしかないようなものとは違い、
ごく庶民的な、
身近なものであることも、
支持を得るひとつの要因かもしれない。


芸術家といわれる人々は、
自分の感覚をフル動員させて、
さらにそれ以上の感覚を引き出す。


第六感も霊感も導入して、
あらゆる感覚を駆使しなければならない。


最後に職人的な技術で作業を怠りなくこなし、
具現化する。
つまり形にするわけだ。


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絵画に、
音楽に、
文学にと、
形に残さないとならない。


作品というくらいだから。


天才でない限り、疲れる作業である。


そんな訓練をするのは、
できれば若いときの方が、
習慣化するのも早くて効果的だろう。




私がこの記事をかいたのは、
15年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの381日目の記事である。

執筆年月日1999・05・24
ブログアップ日2014・05・25




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【後 述】

第六感だけすぐれていても
現実の生活にどれほどの役に立つのだろう。

断定しない言葉 [コラムエッセイ]

「断定しない言葉」


本日の朝刊に、
文化庁の
「国語に関する世論調査」
結果が載っていた。


それによると、
相手の反応をうかがう曖昧な言い回しや、
ぼかすような言い方が、
若年層を中心に広がっていることがわかったようだ。


また、日常生活で接する日本語について
「乱れている」と感じる人は、
85%以上にも達しているという。


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……のほう、
……とか、
わたし的には……、
……かな、
……みたいな、
等々、
断定を避け、
相手との距離を保つ心理があるのではないか、
と分析している。


そんな言葉で文章を書いたらどうなるのだろう。


わたし的には、
山田課長さんと、
同行とかして、
カバンのほうをお持ちしますとか言ったら、
「君をカバン持ちで同行させたわけではない」、
とか言われて、
一緒に出かけて山田課長さんの人柄とかが分かって、
とても良かったかな、みたいな……。


なんだかよく分からん状態になってしまう。


曖昧言葉が頻繁に登場すると、
一体なにを言いたいのか、
まったく判然としない。


曖昧というレベルを、遥かに超えてしまう。


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断定しない言葉は、
裏返してみれば主張のない言葉でもある。


断定しないということに限っていえば、
日本の政治家、会社経営者、会議の結論、等々。


言葉に限ったことだけではないようだ。


現代日本社会の特徴でもある。


もう伝統的とまで言えるかもしれない。


そういう大人にしつけられた子供たちなら、
言葉が乱れるのも致し方なし、といえるのか。


断定する言葉は、
ある一面では残酷に聞こえるかもしれない。
若い人たちはそれを嫌って曖昧言葉に終始するのか。


反動として、
ストレスが溜まり爆発しなければ良いが。


言葉の曖昧さは、
行動の過激さにはつながらない、
とは誰にも言えない。




私がこの記事をかいたのは、
14年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの747日目の記事である。

執筆年月日2000・05・24
ブログアップ日2014・05・24





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【後 述】

言葉は生きている、
とはよく言ったもので、
今では、日常的に使われている言葉もある。

しかしこれらは、生きているのではなく、
死に急いでいるのかもしれない。

蒸す日に欲しいにわか雨 [コラムエッセイ]

「蒸す日に欲しいにわか雨」


本日、
気温は27度まで上がり、
蒸し暑かった。


突然夏でもきたかと思ったくらいだ。


蒸す日はベタベタしていやだ。


いま部屋の戸を開け放ち、
網戸にしているが、
風はそよとも吹かない。


もう午後11時だというのに、
一向に涼しくならない。


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娘の部屋ではすでにエアコンが音をたて始めた。


会社でも、
昼間は冷房をしていた。
さすがに私は、
まだ部屋のクーラーをつける気にはなれず、
戸を開け放したのだ。


だいたい蒸し暑くなるのがあまりに早すぎて、
クーラーを掃除していないのだ。


ほんの少し、
夜風が吹いてきた。


でも身体はまだベタついている。
シャワーでも浴びてくればいいのだろう。


しかしこうしてパソコンに向かってしまったので、
書き上げるまで身動きが取れない。


しかし、
暑い、
蒸す、
とダラダラ書いているだけで先に進まない。


これでは駄目だ。
取り敢えず、何しろ、
シャワーを浴びてこよう。
続きはそれからだ。


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……いや~、サッパリした!


やはりこんな日はシャワーに限る。


もう身体がベタつくことはない。


気分一新でパソコンに向かえる。


今年、
沖縄はすでに梅雨入りしたが、
例年よりは遅かった、
と天気予報官は言っていた。


その割に関東地方は暑く蒸す、
ということは、
梅雨入りしたら、
かなりしつこく雨が降るのだろうか。


いまは天候も定石通りに推移しない。
季節感というものが乏しい。


自然の営みが不安定だ。


人間のせいではないか、
と言ってしまえばそれまでだが、
いまや人間の心も不安定だ。


世の中は不安だらけだし、
人間関係も不信の繋がりに遭遇する局面が多くなった。


蒸す日は、
気持ちも最悪。


いっそのこと、
にわか雨でもサァーッと降ってくれたほうが、
どんなに気も休まることか。




私がこの記事をかいたのは、
14年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの746日目の記事である。

執筆年月日2000・05・23
ブログアップ日2014・05・23





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【後 述】

この天候不安定は、
今始まったことじゃないんだ。

14年以上も前からそんな状態だったんだ。

人間10年も経つと、
昔のことはすっかり
忘れてしまうものですね。

目覚まし時計はかかせない [コラムエッセイ]

「目覚まし時計はかかせない」


サラリーマンにかかせないものとして、
目覚まし時計がある。


私が家族の誰よりも、
こと目覚ましに関しては、
絶大の信頼を置いている奴だ。


朝方、
畳を揺るがし、
鈍重にもけたたましく鳴る音は、
否応なしに私の眼をこじ開けてくれる。


また、
電池一個で長期間、
時を刻み続けてくれるしっかりものだ。


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何しろわが家は、
音に強い人たちばかりで、
目覚まし時計だけでは起きない。


特に女性軍、
と言っても他にはかみさんと娘の二名しかいないが、
朝になると、


「なんで起こしてくれなかったの!」と娘。


「ひとにばかり頼らず自分で起きなさい」
と、かみさん。


二人でブツブツ言いあっている。


二人の枕元には、私にも耳障りな、
強烈な目覚まし時計が置いてあるというのに。


かつては、
横で寝ているかみさんの目覚まし時計が鳴ると、
私は彼女をたたき起こしていた。


しかし、いまはめったに起こさない。


自分が寝そびれてしまうからだ。
彼女と私の起床時間は違うから、
彼女を起こすと私が完全に目覚めてしまうのだ。


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目覚まし時計がなかった時代の人たちは、
どんな方法で朝寝坊から逃れていたのか。


朝日の光や、自然の音が、その役割を果たしたのか。


それとも、
朝がくると体内時計で目覚めるようになっていた
のだろうか。


少なくとも現代人よりは、
身体と自然のリズムは合っていたのだろう。


私は、そろそろ眠くなってきた。


帰宅して、食事をとってから書き始めると、
この時間(十時半)になると、もうウトウトしてしまう。


目覚まし時計のことよりも、
目を覚ましてシャキッとした文章を書きたい。


眠い……。




私がこの記事をかいたのは、
14年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの745日目の記事である。

執筆年月日2000・05・22
ブログアップ日2014・05・22





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【後 述】

今でも昼食後の二時から三時にかけては眠くなる。

目覚ましをつけずに眠気と戦うのは至難の業だ。

目を覚ます時計が目覚まし時計ならば、
眠気を取り除いてくれる眠気取り時計があったって
いいじゃないか。


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