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潤いの、夏のボーナス、今年はもう出ましたか? [コラムエッセイ]

「潤いの、夏のボーナス、今年はもう出ましたか?」


本日夏のボーナスが出た。


サラリーマン経験のない人は、
ボーナスの喜びは分からないだろう。


半年間の忍耐と、涙と汗の結晶、
などと月並みな言葉では語り尽くせない重みがある。


特に家族や子供を抱えていると、
まさにボーナスで一息つけるのだ。


私はあと三年足らずの内に、
ボーナスをもらわない世界へ入ってゆこう
としているわけだ。


何か残念な気もする。


サラリーマンをしていて、
よくやったな、と思える瞬間は、
ボーナス以外にはあまりない。
というのが、標準的なサラリーマンの実感であろう。

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「金じゃないよ」、という猛者もたまにいるが、
「じゃあ何なの?」と訊けば、
やり甲斐だ、とか達成感だ、とか言う。


たしかに短距離走者であれば、
そういうこともあろう。


しかし長距離走者であるサラリーマンにとっては、
給料日が多少なりとも報われる瞬間ではないだろうか。


そして給与が数ヶ月分まとまって入ってくるボーナスで、
ある意味では達成感を味わい、
よしまた半年頑張ってみるか、
と思える一瞬になるのだろうと思う。


継続的な不景気に大きく影響を受けて、
ボーナスが年々少なくなってきている。
でもまだ貰えるだけでも良いと思わなくては、
などとサラリーマンならではの表現で、
わが身を慰めたりしている。


私はかつて歩合セールスマンだったとき、
ボーナスのないことに物足りなさを感じた。


結果を出せば、
一月でボーナス以上の給料がもらえたにも拘わらず。

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しかしよく考えてみると、
本来もらえるものを先延ばしにされているわけで、
大仰にありがたがる必要はないのかもしれない。


味気ないこというなよ、といわれるかもしれないが、
そう考えて、
今後もらえない世界へ入る覚悟を私は決める。



私がこの記事をかいたのは、
16年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの53日目の記事である。

執筆年月日1998・06・30
ブログアップ日 2014・06・30




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【後 述】

もうボーナスをもらえなくなってから久しいが、
今でも、あの時期の何とも言えない潤いのひと時を
懐かしく思う。

日本でも年俸などといって
それを12で割って1ヶ月の給与を支払いボーナスなし、
などという企業も増えているようだが、
良いところは残してもいいのではないか。

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固定観念もなくなる、目からうろこの現実視 [コラムエッセイ]

「固定観念もなくなる、目からうろこの現実視」


人間には固定観念があることで、
実際に自分の眼で見ない限り、
固定された観念はいよいよ錆付いて、
動かないものとなる。


本日は棚卸しのため出張に出た。


道すがら、棚卸し先の近くにある、
別の仕入先工場を見学させて貰った。


紙などの裏面に、
糊が付いたシールを製造しているメーカーだ。


糊付きシールは、
使用するとき不用になる紙と、
使用する糊のついた紙とでできている。


使用する紙に糊が付いているわけだから、
当然その紙に糊を付け、
はがす紙を後から付け合わせて製造していると
思っていた。

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さにあらず、
はがして不用となる紙に糊の原料を塗布し、
付け合わせた使用する紙に糊を転写させる。


つまり作る段階ではまったく逆になっているのだ。


日常生活で、
似たような固定観念をもっていることは
結構多いのではないか。


また、サラリーマンとしての固定観念も、
至るところにあるような気がする。


サラリーマンは所詮宮仕え、
気楽な稼業、労働力の切り売り、
定年まで勤めあげるもの、
等々各人に固定観念があると思う。


たしかにあたってもいるが、
よく考えてみると、ほんとうだろうかとも思う。


所詮宮仕え、だろうか。


サラリーマン社長でも、
オーナーと同等の力を持つ人もいる。


現在は、気楽な稼業でもない。


労働力の切り売りは、
労働力の販売に成功しているともいえる。


今時定年まで勤めるものでもないだろう、
その前に会社がないかもしれない。


固定観念を見直すには、まったく逆を想像すると面白い。


そうすることで、
柔軟な思考力が養われるのではないだろうか。

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少し前まで、小説家は天才ほど破天荒といわれた。
あたっているかもしれない。


しかし、まったく逆に、
コツコツやる着実な人にも天才的な小説家はいる、
と私は思う。



私がこの記事をかいたのは、
15年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの417日目の記事である。

執筆年月日1999・06・29
ブログアップ日 2014・06・29




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【後 述】

何事も前向きに進もうとするならば、
固定観念には捉えられないようにするべきである。

と同時にすべてのことを
肯定的に考えることがその秘訣である。

決して否定的には考えない。

これを実行するには、たゆまぬ訓練が必要である。

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加齢を華麗に変える60代!  姿勢がいいね、郷ひろみ [テレビ番組]

「加齢を華麗に変える60代!
 姿勢がいいね、郷ひろみ」


昨晩のEテレ「団塊スタイル」に、
歌手の郷ひろみが出演した。


彼も来年60歳という年齢を迎えるそうだ。


彼の生き様はまさに
「60代に人生のピークを」
と言ってはばからない
加齢を華麗に変える60代の生き方だ。


番組で紹介された郷ひろみの
たゆまざる様々な日々の鍛練には
ただただ脱帽である。


私が以前書いた記事
「島倉千代子」
を彷彿とさせた。


歌手であることを貫き
その維持だけでなく、
更なる高みを目指す気概は
ともに非凡であると言えるだろう。

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同番組をご覧になっていた
多くの団塊世代の方々は
彼の途切れのない歩みに
大いに励まされ、
大いに勇気づけられたことだろう。


同じ60歳代の現役歌手も大勢いるが、
これほど華麗にやっている歌手がいるだろうか?


彼は年齢に対する哲学を持っている。


それを腕立て伏せ12回1セットを
実際にジムでやっている場面で、
こう言い放った。


「最後の11回目と12回目のためにその前の
 10回があるんだ」と。


力をふり絞るようにして11回目と12回目に
臨むのではなく、
その為に10回やってきているのだから
ここにピークを持ってきて
軽やかにこなすというわけだ。


つまり
60歳まで生きてきた年数は
60歳にピークを持ってきて
60代を軽やかに華麗に生き抜くというのだ。


感心しながら見ていた。


そして、なるほどと気が付いたことがある。


いつまでも若々しい人や
長寿の方々に共通している点である。

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それは、
何しろ

姿勢が良い!

背筋がピシッとしている。


でれでれせずに
動きにけじめがキッチリついている。


この郷ひろみの姿勢は是非とも見習いたいものだ。


健全なる精神は健全なる肉体に宿る
という言葉を小さい時から心に留め
まさにそれを実践しているとも言っていた。


現代のように長寿の時代は
ある意味では60歳は人生の
ターニングポイントと言っても
過言ではないのかもしれない。




ブログアップ日 2014・06・28




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逆転の発想、吹く掃除機って日本にはないの? [コラムエッセイ]

「逆転の発想、吹く掃除機って日本にはないの?」


私はかつて、
外国製の家庭用掃除機を訪問販売していた。


これは非常に優れ物で、
当時日本の掃除機にはないとても素晴らしい機能を
備えていた。


たぶんいまでも、
日本製掃除機にはついていない機能であろう。


それは、「吹く」という機能だ。


掃除機といえば、「吸う」のが既成概念である。


私は以前から、吹き飛ばす機能があったら、
さらに便利だろうな、と考えていた。


それがついていたのである。

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吹くことは様々に応用できる。


ホースの先端に専用霧吹き器をつけ、
網戸を奇麗にすることができた。


消費者が購入を決定づける、
大きなセールスポイントにもなった。


またいまでこそ、
キーボードの埃とりに使う
ブロウ缶などが販売されているが、
当時そんなものはなかった。


狭い場所の掃除には、
吸い取るよりも、
まず吹き飛ばした方がいいときがある。
そんなときにはうってつけの機能だった。


押してもダメなら引いてみな、というが、
吸ってもダメなら吹いてみな、
ということになる。


物事、同じ方向にばかり力を入れないで、
たまにはまったく逆をやってみるのも、
大きな発想の転換になるだろう。


私の場合、書いてもダメならどうしたらいいのだろうか。


書く逆は読む。
自分の作品を声をだして読めばいい。
そうすれば、
書くことの何かが見えてくるのではないか。


私はいま、
果たして自分の実力で物書きとして独立できるかどうか、
試練を強いられている。


そんなふうに、自らを追いこむ時期もないと、
だらだらと終わってしまうだろう。

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あらゆることを、いま一度基本に返り、
じっくりとやるのが重要になる。


それをきちんとできるか否かが、
情熱を萎えさせてしまうか、維持できるかの別れ道だ。



私がこの記事をかいたのは、
14年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの782日目の記事である。

執筆年月日2000・06・28
ブログアップ日 2014・06・28




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【後 述】

未だに吹く掃除機は
日本の電気メーカーは製造していないようだ。

色々と難しいのかもしれないし、
私が考えるほど需要がないのかもしれない。

しかし、全く逆転の発想をして試行錯誤しなければ、
良い商品など生まれるものではない。

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使い方次第で充分役立つ100円ショップの老眼鏡 [コラムエッセイ]

「使い方次第で充分役立つ100円ショップの老眼鏡」


昨日、100円ショップで老眼鏡を4つ買った。
私はすでに2つ持っている。


眼鏡店で正式に眼の検査をして購入した
数万円もする老眼鏡と、
2,000円前後で買ったできあいの眼鏡だ。


老眼鏡を眼鏡店で注文するときに、
私は悩んだ。


かみさんは近視なので、
眼の状態に合わせて眼鏡を誂える必要があろう。


しかし、私の老眼は自然現象である。
誂えでなく、できあいの眼鏡を、
自分で確認して買っても問題ないのではないか、
と思っていた。

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なぜならば非常に高いのだ。


私たち素人には分からないが、
原価を考えるとべらぼうに高いのだ。


普及している眼鏡安売り店の価格で考えても高い。


検査器等、
設備投資に金がかかるのは分かる。
また、専門の知識をもった研究員や開発員を
置かなければならないという、
人的コストがかかることも分かる。


それにしても高い。


安売り店でもまだ高い。


眼の悪い人にとっては、いわば命のような道具だ。


価値あるものである。
イコール高くても良い、とは思わない。


昔と違い、
いまは技術も品質も
それほど大差のない時代になっている。


安いから粗悪品ではない。
眼鏡の製造販売に関しては、
より一層の研究をしないと、
100円の誂え眼鏡とまではいかないまでも、
画期的な眼鏡店がでてくるだろう。


時代の寵児は必ずいる。


おかげで私は、
4つの100円老眼鏡ですこぶる便利になった。


私が文字を読むと思われる場所すべてに、
置き眼鏡をすることができたからだ。


たった400円のことであった。
100円ショップの経営者には脱帽である。

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どの業界でもサラリーマンはいるが、
これからもサラリーマンをやってゆくのなら、
自分の仕事に、そこまで真剣に取り組まないと、
業界からでなく社会から弾かれてしまう。



私がこの記事をかいたのは、
15年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの415日目の記事である。

執筆年月日1999・06・27
ブログアップ日 2014・06・27




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【後 述】

あれから眼鏡店も様々な店が誕生した。

しかしまだまだ価格やサービスの点で、
革命的な店は現れていない。

今後の出現に期待する。

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サラリーマンの人間関係、仲間はずれにされず、取り残されず、出過ぎないようにするのが肝心 [コラムエッセイ]

「サラリーマンの人間関係、仲間はずれにされず、取り残されず、出過ぎないようにするのが肝心」


なぜか。


サラリーマンにとって人間関係は最も重要だ、
という人が多いのは。


傷を舐めあう人種だからではないだろうか。


自分だけ突出しては仲間はずれにされるし、
おとなしくしていれば取り残される。
普通の精神であれば、
それでは一体どうすればいいのだ、と迷ってしまう。


答は、つるむことだろう。できれば群れをなして。


つるんで群れていれば面倒くさくない。


しかし、つるむ相手は同レベルの人に限られる。
自分や相手が昇格したときに、相手も代わってくる。


つるんだ連中が上下関係で群れるのを、
一般的には閥という。
属していない人は、仲間はずれにされやすい。


しかし群れのなかで生きるには、
能力や仕事に対する姿勢云々よりも、
そこで中軸を成す連中にとって、
いかに役に立つか否かだけだ。


つまりどんなに仕事ができたとしても、
その群れのなかで役にたつとは限らない。


むしろ逆になってしまうケースのほうが
多いかもしれない。

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このように会社の人間関係は、
実にバカバカしくなるほど煩わしい。


私は会社以外の人間関係でも煩わしいと思うのに、
さらに会社の人間関係にまで
エネルギーを使いたくない、
仕事だけで勘弁してくれ、と単純に思ってしまう。


それでも、煩わしさを凌ぐほど、
ほんとうに大切なのだろうか。


ほとんどのサラリーマンは非常に大切であると考え、
会社の人間関係でエネルギーを十二分に使い果たし、
身近な人間関係では無頓着になっているのが現状だろう。


私は、月給以上の働きをしていると自負している。
よって、それ以上のつきあいは御免こうむりたい、
と願うほうだ。


それでも何回かに一回の割合で
つきあわなければならなかったり、
自分の都合でつきあったりする。


酒、麻雀、ゴルフ、等々の誘いだ。


本来、
仕事の実力や心構えは公正に判断されなければならない。


それを歪めてしまう人間関係にはほとほと愛想がつきる。


現在、民間では60歳定年の会社が多い。


定年後、元いた会社の人間とつきあっている退職者が
何人いるだろうか。


いるとすれば、
何かしらの利害関係を残しているケースが
ほとんどだろう。


もしくは、麻雀、ゴルフのように、
一人ではできない遊びごとのつながり
ぐらいではないだろうか。


日本男性の平均寿命は77歳である。
定年後20年近い年月を生きる上で、
利害だけの人間関係はほどほどにしておくべきだろう。

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彼らが、定年後の人生を支えてくれるわけではない。
そんな時間があったら、
自分をもっと向上させるとか、
定年後も働けるように勉学にいそしむとかしたほうが、
よほど良いと思う。


いまからでも決して遅くはない。
何か自分のやりたいことに、
長期的な計画を立てて突き進んでみるのに。


私は学生時代から、
サラリーマン以外で食べる道を悶々と探してきたが、
25年以上もサラリーマンをしてしまった。


しかし48歳のいま、やっとその抜け道を見つけ、
実行に移そうと努力し始めた。


抜け道がなぜに物書きなのかは、
自分自身でも判然としない。


ただ、
今までの浮いては沈みしていた様々な想いとは違い、
決意に耐えてゆけそうな気がするのだ。


何でもよいのだ、始めることが重要だ。



私がこの記事をかいたのは、
16年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの2日目の記事である。

執筆年月日1998・05・10
ブログアップ日 2014・06・26




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【後 述】

一人で生きている世界でない以上、
必ず望むと望まざるとに拘わらず、
必ず人間関係は発生する。

現実はそう甘いものではないことは分かっているが、
願わくは文字通りにありたいものである。

つまり、心から信頼し合え、
支え合える、そんな関係でありたいと願う。

もしあなたが、ご夫婦で健在ならば、
まずは夫婦関係をしっかりと整えることが、
大切ですぞ。

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サラリーマンとは何だ? 月給とり? それとも…… [コラムエッセイ]

「サラリーマンとは何だ? 月給とり? それとも……」


サラリーマン。


日本語で言うと、月給とり。
と、広辞苑にも出ている。


つまり報酬を月給でもらっていれば、
すべてサラリーマンということになる。


であれば、
自分の会社から月給を支給されているオーナー社長も、
サラリーマンであろうか?


否である。


つまり、こうだ。


オーナー社長が酒を飲みながら愚痴って、
「我々サラリーマンはな、――」とか、
何かと言っては、
「サラリーマンなんだから、
しようがないじゃないか、……」
などとは決して口にしない。
聞いたこともない。


たまに
「私もサラリーマンのはしくれです」
とか言ってはみても、
あくまでもサラリーをもらっている人、
という文字どおりの意味でしかない。


日本語になっているサラリーマンは、
もう少し意味が深いと思う。


もちろん月給とりに違いはないのだが、
事業の全権は持たず、
自分で自由にできることも少ない。


ひきかえに、法律に触れていない限り、
有限の責任で終わる。

要するに、
全権がないかわりに責任を軽減されているとも言える。


辛気くさい宮仕えといわれる所以である。

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いわゆるサラリーマンとして入社し、
社長になったケースでサラリーマン社長がいる。


この場合も全権は与えられておらず、
うしろに影のトップがさまざまなかたちで存在する
ことが多い、と聞く。


オーナー社長や跡継ぎ社長は、
そうはいかない。


法的には有限の場合も、
実際にはすべての責任を負わなければならないからだ。


江戸時代、日本の月給とりは扶持を食み、
代々絶やさずに守っていた。


現代、月給とりが、
月給のために代々守らなければならないことなど
一切ない。


武士の時代、家を断絶させないようにしたのは、
とりもなおさず
月給生活を子々孫々まで保証してくれたことに、
しがみついていたからに他ならない。


武士道云々というかもしれないが、
それは今はなきものを美化したに過ぎない。


現実の生活は、食べなければならないという、
より切実な問題に立脚したものだったのでは
ないだろうか。


意識していたかどうかは知らないが、
お家断絶になれば、
保証された経済的・物質的援助は、
まったくなくなってしまうのだから。


しかし、わずかでも扶持を食んでいる以上は、
上司に対しては絶対服従。


ときによっては自分の死をもって、
扶持が絶えないよう処置しなければならなかった。
彼らが、いまのサラリーマンより
よほど命がけであったのは明らかだ。


現代日本のサラリーマン社会は、
間違いなく江戸時代武家社会からの名残がある。

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ただ、江戸時代よりも仕官先(就職先)は多い。


そして仕官先を脱藩(辞職)するときに、
本当に死ぬかもしれないという、
決死の覚悟がいらなくなっただけだ。


会社が昔の藩そのもので、
オーナー社長は、たとえでなく、
殿様そのものである。


天皇と呼ばれることすらある。


過去の武家・公家社会そのものだ。


世襲制度が多いのも、
まったく昔の社会構造となんら変わったところはない。


既得権が幅をきかす、
前近代的な感覚といわざるを得ない。


サラリーマンは、その他おおぜいの代表格である。


それ以上でもなければ、それ以下でもない。


平凡でもあり、悲哀にも満ち満ちている。


40年前後のサラリーマン生活を無難に乗り切れば、
私たちの人生はほとんど終わりなのだろうか?


サラリーマンとは、一体全体何であるか。


私が、
『サラリーマン千日解放』を書き終えるまでには、
定義できないかもしれない。
しかし、輪郭くらいはつかめるのではないかと思う。


そのとき、私はサラリーマンを解放される。



私がこの記事をかいたのは、
16年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの1日目の記事である。

執筆年月日1998・05・09
ブログアップ日 2014・06・25




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【後 述】

益々サラリーマンの正体がつかめなくなってきている。

その原因のひとつに、
日本で培われてきたサラリーマンというものが
その性格を大きく変化させているからである。

正社員、契約社員、派遣社員、パート社員等々、
その待遇によって多種多様のサラリーマンが誕生し、
ひとくくりできなくなっているのである。

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ヒーローであるスーパーマンが何故ピストルで死んじゃうの? [コラムエッセイ]

「ヒーローであるスーパーマンが何故ピストルで死んじゃうの?」


私が少年のころ、
ヒーローはたくさんいた。


テレビの人気者であり、
スポーツ選手であり、
漫画の主人公であったりした。


その中で、
三人のヒーローが、
それぞれの立場を守りきれずに消えていった。

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まず一人めがスーパーマン。


私の家にまだテレビがないころの番組で、
近所の家で、
食事中に見させてもらったことを思い出す。


新聞は、スーパーマンを演じていた俳優が、
ピストル自殺したと報じた。


しばらくの間、私は信じられなかった。


番組のスタート画面でいつも胸を張って
弾を跳ね返していた男が
どうしてピストルで死ねるのか、と。


二人めが、国民的スタープロレスラー。


プロレス全盛から、
やや下火になっていったころだった
と記憶している。


飲食店で酔漢と喧嘩をし、刺殺された。


最初の報道では、
それほど重傷のようには書かれていなかった。


しかし、数日後に亡くなったと思う。


あんなに強い男が、
どうして相手を倒せずに刺されてしまったのか、
不思議でならなかった。


三人めは、国民的英雄となった陸上選手。


東京オリンピックのメダリストである。


彼は次のオリンピックでもメダルを期待され、
その重圧に耐えかねて自殺した、と書かれた。


最も過酷な精神力を要求される運動で、
オリンピックメダルまで取った人間が
自殺したのも信じ難かった。

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いま、サラリーマンにとってヒーロー、
英雄とは誰だろうか。


職場の正義感に溢れた上司か。
やることなすことすべてが成功し、
社員のカリスマ的存在たる経営者か。


それとも脱サラして、大成功を収める人か。


現代は、ヒーローなんかいないのかもしれない。
それこそ、自分の中に隠れているのかもしれない。


そうだ、私が創り出せばいい。


そのために、こうして毎日書いているのだから。



私がこの記事をかいたのは、
16年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの25日目の記事である。

執筆年月日1998・06・02
ブログアップ日 2014・06・24




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【後 述】

その後も同様の事件は絶えてはいない。

私たち凡人は、
どんなヒーローであっても
普通の人間であることを
折に触れて認識する必要があろう。

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満員電車が良く似合うサラリーマンも、そろそろ自転車通勤へ [コラムエッセイ]

「満員電車が良く似合うサラリーマンも、そろそろ自転車通勤へ」


サラリーマンに満員電車。


一番良く似合う言葉である。


「ラッシュアワーの満員電車」は、
すぐにサラリーマンという種族を連想させ、
重い厭なイメージがオーバーラップする。


独立心の旺盛な若者が、
最もなりたくない種族の代表に、
サラリーマンを位置づけているのも、
うなずけなくはない。

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昔、私が取引先の親しい英国人に、
「いいものを経験させてやるよ。
日本のビジネスを知る上で大いに役立つはずだ」
といって朝八時過ぎ、
わざわざ山手線のラッシュアワーに
引っ張り込んだことがある。


昼食時、ラッシュアワーの感想を聞いた。


彼はかなり真面目な顔をして、
こんな経験は一生に一度でたくさんだ、
と、そんなことをさせた私に憤慨していた。


ある意味ではすごいというか、
バカげているというか。


なぜなら、一生に一度でいい経験を、
我々は毎日やっているのだから。


それも文句もいわずに続けているのだから。


私は、「ラッシュアワーの満員電車」がなかったら、
若者のサラリーマン支持率も、
もう少し高くなるのではないかと思っている。


もっと良い仕事ができ、
もっと高年齢まで働けるようになるのではないか、とも。


風邪で高熱を出し、
二、三日寝込んだとしよう。


やっと回復し、
朝のラッシュアワーに臨むと、
とても疲れる。


そう感じた経験をお持ちの方は多いと思う。


それほどエネルギーを消耗するのが、
満員電車だ。


スタートから、
疲れた身体で机に向かって、
良い仕事などできるわけがない。

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しかしどうにもならないのは、
横並びに安堵を覚える日本人の国民性だ。


そのまま会社という日本法人にも乗り移っている。


一時叫ばれた時差通勤を実施している会社は、
少ない。


少なくとも私の知っている範囲では皆無である。


未だに都会のサラリーマンは、
横並びの安堵と引き換えに、
満員電車に疲れきっている。



私がこの記事をかいたのは、
16年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの26日目の記事である。

執筆年月日1998・06・03
ブログアップ日 2014・06・23




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【後 述】

本当にここ数年のことであるが、
労働者も会社も、
共に職住接近を重要視する必要に目覚めたようだ。

当たり前と言えば、当たり前なのだが、
これとてほんの一握りの現象である。

せめて自転車で20~30分くらいで通える範囲が、
職住接近の最低条件だろう。

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あなた誰? と問われるほどアイデンティティが育ちにくい現代社会 [コラムエッセイ]

「あなた誰? と問われるほどアイデンティティが育ちにくい現代社会」


「あなた何者?」、「なぜ生きてるの?」、
「一体誰なの?」と問われ、
自信を持ってきちんと答えられる人が何人いるだろうか。


「私の名前は〇〇です」、
「☐☐会社のサラリーマンをしています」、
「現在四人家族で、毎日つつがなく暮らしています」
くらいの答は返せるだろう。


しかし、「何者なんですか?」と質問した人は、
そんな答は期待していない。


あなたの生き様を知りたがっているのだ。


ほんとうに生きていますか、と問いかけているのだ。


それに対しあなたは、
「毎日溌剌と生きています」、
といえるか否か、ということだ。


いつでもそう答えられなくてはいけない。


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などというのはウソで、
「生き方に迷っているよ」、
「ほんとうに疲れちゃったよ」、
「もう何もかも捨てたいよ」、
「おれってほんとうに生きているんだろうか」、
「何を支えに生きてゆけばいいのか
分からなくなっちゃたよ」、
「いまそれどころじゃないよ」
などの答えが本音だろう。


「私はいったい誰でしょう?」
と答えにもならないのが、実際かもしれない。


もしくは、「そういうあなたは?」、
と逆に問いただしてやっても良いかもしれない。


現代社会では、アイデンティティが育ちにくい。
というよりも、埋没してしまっている。


それだけに、
あらゆるところでアイデンティティを求める声が大きい。


いまや百歳まで生きられる時代だ。


生きている自己証明を示すチャンスは、
必ずあるはずだ。


また時間をかければ、
チャンスを生むことだってできるはずだ。

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「あなた誰?」と問われ、
「会社と共に生きる人」、
「死ぬために生きている人」、
などというような答では侘びしい。


せめて、
「命が燃え尽きるまで精一杯、自然に、正直に生きる人」、
くらい言いたい。



私がこの記事をかいたのは、
14年前のことである。

当時サラリーマンであった私が作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの776日目の記事である。

執筆年月日2000・06・22
ブログアップ日 2014・06・22




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【後 述】

一瞬、一瞬を大切に感謝して
生きて行きたいものである。

それだけで自分自身が
何者であるかが分かってくるように思う。

自然に流されるのではなく、
自然に乗って生きて行くことだ。

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