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社内調整 [コラムエッセイ]

「社内調整」


サラリーマンにとって、
一番バカバカしく
エネルギーを費やしてしまうものに、
社内調整がある。


これがまた裏腹に大事なので、
なかなか厄介なのだ。

chousei.jpg

外出することの多い営業マンは、
仕事に対する全エネルギーの
半分以下で良いかもしれないが、
内勤者は下手をすると、
一日中社内調整に費やすことさえある。


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こういう会社組織の悪習が、
景気回復の抜け道を与えることに、
躊躇(ためら)いをもっているようにさえ
みえてくる。


リストラや資材のコストダウンをするよりも、
多くの悪習をなくした方が
大きな改善になるであろう。


仕事の本質に、
最大のエネルギーを投資することが、
一番経済的なのは
火を見るよりも明らかなはずだ。


つまらない社内気配りなど、
生産性がまったくないエネルギー浪費である
と分かっていても、
上司に、部下に気を遣う。


仕事は、上から言われたことが最優先。


それがサラリーマンの常識になっている。


私はそんな世界で、20年以上もすごした。


常に抜け出したいと思いながら、
何の策を施すこともなく、
現在に至ってしまった。


社内セールスに明け暮れ、
夜までもその根回しに気を遣う。


そして自分の周囲を安全に保ち、
ポストの維持、ひいては昇格を狙う。


やはり私の性に合わない。


それでも
腰までずっぽりと浸かってしまっている以上、
すぐに抜け出すことはできない。


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ここまで2年書くことを続けてきたが、
やはりサラリーマン根性は取れない。


あたり前だ、
まだ実際にサラリーマンだからだ。


心から抜け出したいのなら、
いままでのような、
ただ情熱や努力だけでは駄目だ。


社内調整で遣うエネルギーを、
すべて自分の勉強に回し、
さらに創作能力を磨かなければ、
作家生活など雲散霧消と化す。




私がこの記事をかいたのは、
16年前のことである。
当時サラリーマンであった私が
作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの
783日目の記事である。

執筆年月日 2000・06・29
ブログアップ日 2016・06・28





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【後 述】


どんなことでも
決して無駄になっていない
ということを身をもって知ったのは
ごく最近である。

なかなかそういうことは
それこそ
様々なことをやり、
良いと思うことも
何になるんだということも
やってみないと分からない。

そしてそれらが
織り合わさって
いつしか一本の糸のようになって
すべてを益とする道を
歩んでいることに気付くのだ。
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狂いの因子:後 述 [コラムエッセイ]


「狂いの因子:後 述」


昨日まで3週にわたり
読んでいただけたことを感謝します。


私自身驚いたことは、
これを掲載するにあたり、
その内容を確認しながら
ひとつひとつアップしたのであるが、

16年経った今も
全く変わっていないということだった。


いやむしろ
悪化しているものも多くあった。


これをアップするきっかけとなったのは、
柳田邦男さんの
「壊れる日本人」という本だったが、
今は
「壊れる地球人」と言っても
過言ではないほど、世界各国、
この地球自体が大きく壊れ始めている。


earth.jpg


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この16年の間
世界では
様々な事件、自然現象、経済的な変化が
怒っている。


今上記した「怒っている」は、
「起こっている」の間違いだが、
たまたまパソコンのいたずらで
最初に
この「怒っている」が出てしまい、
そのままエンターしてから気が付いた。


この「狂いの因子」に
挙げなかった因子のひとつに
「怒り」があったことを。


人間のごくごくちっぽけな怒りであっても、
それが、この地球をも破壊する力があるのだ。


それは歴史上の
あらゆる大きな争いの原点である。


この怒りと金の絡みが
物事を取り返しのつかない事態へと
誘導するのだ。


日本で最も代表的なものとして
私は、いつも
織田信長と明智光秀の
本能寺の変を思い出す。


信長と光秀の間に生じた
小さな怒りが
徐々に膨らんで行き、

それが所領の問題に及び
経済的な危機という
あからさまな問題に直面した時に、
光秀が起こした事件と思えるのである。


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今、世界では様々な怒りが
世界を揺るがす
大きな問題に発展しているケースを多く見る。



怒りは怒りを呼ぶことを
もっと私たちは認知するべきであろう。


それは、
過去のものであれ、
今この瞬間のものであれ、
同じである。


その怒りが
たとえ
誰が見ても正しいといえることで
あってもだ。


その怒りをぶつけられた者は、
決して、よしとは認めたくない
というのが人間の原罪なのである。


私たち人間は、

三度の食事、平安、笑顔

があれば、楽しく生きて行かれる。


今だからこそ、
自分自身の人生にじっくりと
取り組んで行く時期なのかもしれない。




ブログアップ日 2016・06・25





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狂いの因子15:加熱した経済 [コラムエッセイ]


「狂いの因子15:加熱した経済」


本日で、
「狂いの因子」をひとまず止める。


従ってタイトルは、
1から14まですべての底に流れる、
「加熱した経済」とした。


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つまり先進国のあまりにも過熱した経済が、
社会のあらゆる価値観に
大きな変化をきたしてしまった。


それが、狂いの出発点でもあり、
終点にもなりうるからだ。


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皮肉にも、
貧困がその役割を果たしていた時代もあった。


どちらにしても、
極端に走ってしまうと
勢いは止められなくなり、
世の中は狂い始める。


ほどよい頃合いというもので、
皆が留まっていればいいのだ。


とはいうものの、
他人に先を越されたくないから、
頃合い自体がどんどん変化してゆく。


気がつくと、
「人間低く目標を掲げると達成できない」
などという、
もっともらしい文句に惑わされ、
走ってきた自分を誉めていたりする。


かく言う私も、つい2年ほど前までは、
まさにそんな一人だった。


仕事で、
私が考えているスピードや能力のない人を、
馬鹿にしたようなところがあった
かもしれない。


けれどもいまでは、
そんなに慌ててどうするのだ、
と思うようになった。


余裕を持って周りをみると、
走っているのは、
単に自分の保身でそうしている人たちが
多いとわかった。


たまたま私の周りという、
狭い世界だけを見ているので、
これが一般的とは思わないが、
加熱した経済が、
社会生活を気ぜわしいものにしていることは
間違いないだろう。


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もう立ち止まってもいいのではないか。


いまの各製造業における信用失墜は、
このまま行けば、
いずれ世界で信用を失墜することになる
だろう。


ならば何年か充電状態に入ったほうがましだ。


加熱した経済は頭を熱くするだけだ。


心は熱くならずに、だんだん鈍感にする。




私がこの記事をかいたのは、
16年前のことである。
当時サラリーマンであった私が
作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの
860日目の記事である。

執筆年月日 2000・09・14
ブログアップ日 2016・06・24





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狂いの因子14:金(かね) [コラムエッセイ]


「狂いの因子14:金(かね)」


いつの世も、
使い方ひとつで良くも悪くもなるものがある。


money.jpg


その代表は金だろう。


欲をかけばきりないし、
まったくなしでも困る。


どのくらいあればよいかという、
度合いの難しさは他に類をみない。


生活レベルを上げてしまうと、
落とすときは困難を極める、
とよく言われる。


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突然経済的に貧した場合、
当然いままでの生活などできなくなる。


従って相応の生活をすればいい。


しかしそれがなかなかできない。


生活レベルを維持しようと、
つい借金を重ね、
泥沼に入り込んでしまう。


つまり金に振り回されてしまうのだ。


人間に染み付いた生活は、
頭の中で切り替えようとしても、
身体が上手く馴染むまでに、
かなりタイムラグがあるのだろう。


他人の眼を気にしたり、
家族の歩調が合わなかったりして、
気がついたら、
にっちもさっちもいかなかったりするものだ。


現在、世界のあらゆる国で貨幣が存在する。


たぶん金なしで生活できる国はないだろう。


たとえ自給自足をしていても、
まったく金がいらない、
ということはなかろう。


まず生きてゆく上で、
必要不可欠なものである
ことに間違いないわけだ。


世の中で起こる事件は、
金に絡んだことが
最も多いのではないだろうか。


怨恨などといっても、
源は金絡みだったりすることが多い。


金によって引き起こされることは、
喜劇よりも悲劇の方が多い。


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ではそんな金と、
どのようにつきあってゆくべきだろうか。


できるだけ、
つきあいの金は出さないことだろう。


生きた金の使い方を学ぶことだ。


そして物質的な欲から、
精神的な欲に心を転換すべきだ。


人間行き着くところは心の平安だろう。


それは金だけでは決して得られない。


心満たされれば、金はそれほど必要ない。




私がこの記事をかいたのは、
16年前のことである。
当時サラリーマンであった私が
作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの
859日目の記事である。

執筆年月日 2000・09・13
ブログアップ日 2016・06・23





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狂いの因子13:挨拶(あいさつ) [コラムエッセイ]

「狂いの因子13:挨拶(あいさつ)」


「おはようございます」、
「こんにちは」、
「こんばんは」、
「さようなら」、
「失礼いたします」、
「すみませんでした」、
「ありがとうございます」。


aisatsu.jpg


挨拶のできない人が増えている。


若者だけではない。


年配の方でも、
挨拶の仕方を知らないのではないか、
と思わせることがある。


と、私は一方的に思っていた。


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それが、
どうもそんな単純な話ではないようなのだ。


たしかに挨拶のできない人もいるが、
別段挨拶などしなくてもいいではないか、
という考えの人もいるようだ。


面倒臭い、というのだ。


だから、その人たちは友人同士、同僚でも、
突然挨拶抜きの会話から始まる。


私には、
何ともけじめのないように見えてしまう。


彼らは生活に疲れ果てているのかな、
などとも思ってしまう。


元気な声で「おはよう!」
と挨拶すれば、
一日張り切ってスタートできると思うのだが。


すみませんでした・ありがとう、
という言葉は挨拶言葉ではないが、
お詫び・感謝の気持を表す、
けじめの言葉と考えれば、
挨拶の一種になるだろう。


これらは朝晩の挨拶以上に少なくなっている
ような気がする。


総じて自然な素直さがなくなってきている
のだろうか。


人と触れ合うのを、
わずらわしいと思っている。


また、へんに突っ張っていたりもする。


もちろん個人の性格もあるとは思うが、
挨拶なしで積み重ねる毎日は、
次第に人間関係を悪化させてしまう
ケースもある。


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また、
自分だけは挨拶ができていると思っていて、
相手がしないと思っている人が
多いのではないか。


かつては、私もそうだった。


いまは相手が挨拶をしようがしまいが、
私から声をかけるよう心がけている。


ここらへんの努力が必要ではないだろうか。




私がこの記事をかいたのは、
16年前のことである。
当時サラリーマンであった私が
作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの
858日目の記事である。

執筆年月日 2000・09・12
ブログアップ日 2016・06・22





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狂いの因子12:自由のはき違い [コラムエッセイ]


「狂いの因子12:自由のはき違い」


自由に対する一般的な考え方が、
ただ好き勝手にできる、
という解釈になってしまったことは、
日本の、戦前・戦後の状況からいって、
無理ないのかもしれない。


なぜなら、
戦前は耐え抜くことが美徳にまでなった時代
でもあり、
国のためという大義名分が、
常に人の心を縛っていたからだ。


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言論の自由といえば、
何を言っても良い、
書いても良い、
と捉えられがちだ。


フリー○○と言えば、
○○については好き勝手にして良い、
という解釈になってしまう。


free.jpg


しかしそういう輩に限って
その後始末はしない。


新聞や雑誌にしても、
誤報や、度を越した報道に対する謝罪文の、
なんと目立たないことか。


ほとんど分からない。


テレビに至っては、瞬間的で
ほとんど謝罪になっていないような状態だ。


行き過ぎた報道は、
罪のない人の
一生を左右することすらあるだろう。


あまりにも不作法すぎやしないか。


世の中、なんでも自由、自由といい張って、
責任を忘れている風潮がある。


無責任に自由を主張するのは、
ちょうど子供が駄々をこねて
母親に物をねだり、
ところかまわずひっくり返ってしまうのと
似ている。


責任能力があって、
初めて自由を主張できるのを
まったく忘れている。


また自由と解放は似ているが、
まったく異質だと思う。


例えば「この仕事、君の自由にやっていいよ」、
といわれたとき、
当然結果に対する責任はあるが、
その仕事だけに限定される。


つまり有限責任なのだ。


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一方、
解放とは、やろうがやるまいが、
どちらでも良いのだ。


自分の一挙手一投足、
すべてに責任がある。


つまり無限責任なのだ。


サラリーマンを解放されるのは、


自由になることではない。


全責任を自分自身で負うようになる、
ということに他ならない。




私がこの記事をかいたのは、
16年前のことである。
当時サラリーマンであった私が
作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの
857日目の記事である。

執筆年月日 2000・09・11
ブログアップ日 2016・06・21





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狂いの因子11:ゲーム感覚 [コラムエッセイ]


「狂いの因子11:ゲーム感覚」


いまやITの時代。


情報技術を駆使して
ビジネスを活性化しないと、
世界から取り残されてしまう。


コンピューターが急速に発達した結果だ。


年齢に拘わらず、
サラリーマンはパソコンを使えなければ
仕事にならない。


すぐ傍にいる人であっても、
メールでやりとりしなければならない
経験をした人は、
私だけではないはずだ。


生の声で、表情を見ながら、
見せながら話すのではなく、
文字でやりとりする。


その方が都合がいいこともあるが、
慣れるまでに時間がかかった。


やりっぱなしにしてしまうケースも
増えている。


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私たちの子供がまだ幼いころに
ゲーム機は誕生した。


IC(集積回路)技術は、
パソコンやゲーム機の急速な発達に促されて、
相乗効果をもたらした。


game.jpg


ゲーム機の誕生から
すでに20年(今の時点では40年)
近く経っている。


この間に、想像以上の機器の進歩、
それに伴うソフトの充実があった。


様々なソフトがあるようだ。


私は詳細を知らないが、
確実にゲーム認識できるものと、
ゲームの中に同化し、
現実と錯覚してしまいそうなものとがある
ことくらいは知っている。


それが、犯罪や事件の因子になっている
と思われるソフトもあるようだ。


テレビコマーシャルにも、
日常の生活をゲーム感覚で、
ごみ箱に捨ててしまうようなカットがあった。


ここまでくると、
ゲーム感覚は犯罪や事件に影響力がない、
という主張も説得力に欠ける。


一回消しても元に戻せる行為
を続けていると、
それがあたりまえの感覚になってしまう。


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私はビデオでよく録画する。


ときどき番組を見ていて、
後でビデオでみればいい、
と録画もしていないのに錯覚することがある。


そんな感覚に陥るのだ。


私も心しなければならない。


錯覚で作家になれても生活はできない、と。




私がこの記事をかいたのは、
16年前のことである。
当時サラリーマンであった私が
作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの
856日目の記事である。

執筆年月日 2000・09・10
ブログアップ日 2016・06・20





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狂いの因子10:キーワード [コラムエッセイ]

「狂いの因子10:キーワード」


最近よく、
「キーワード」という言葉を、
仕事でも皆好んで使う。


keyword.jpg


文字通りの意味だが、
言葉の裏には何がなんでも
物事を絞り込もうとする、
現代人の性急さが隠れている。


白黒はっきりさせるのが、
どちらかといえば苦手な日本人にしては、
珍しいと言っていいのか。


穿った見方をすれば、
外語好きな日本人の、
一時的なきまぐれとも思える。


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キーワードが分かったところで、
実際の行動に移せなくては、
単なる画に描いた餅だ。


ということを、
キーワードを主張する人たちは
理解しているのだろうか。


口ばかりの人間が増えている中で、
それを助長するかのような、
軽い乗りで使っているのは否めない。


ちかごろの経営者は、
流行のように外語をとり入れ、
短絡的にうわべだけをなぞっている。


本人は真剣なのかもしれないが、
付け焼き刃的に導入しても、
うまくゆくわけはない。


端からみていると、
溺れる者わらをもつかむ、
ようにしか見えない。


この30~40年、
解釈の仕方によっては、
トップの実力にほとんど関係なく
成長してしまった企業がある。


それらの企業は、
こぞって薄化粧だけですましてきたから、
不祥事を起こすシミが
いたるところにできてしまったのだ。


むしろ厚化粧でもしていた方が、
よほどましだったのかもしれない。


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やれISO(イソ)だ、
HACCP(ハセップ)だと、
国際規格合格証を獲得するだけの、
経営者のはしゃぎようは、
一流大学を目指し
合格したらあとは遊び放題という、
私たちが経験した学生時代と何も変わらない。


キーワードの捉え方と、
実行力のバランスに欠けている場合、
滑稽なひとり芝居をしているようにしか
見えない。


私のキーワードは物書き。


滑稽なひとり芝居にだけはならぬよう、
頑張らなくては。




私がこの記事をかいたのは、
16年前のことである。
当時サラリーマンであった私が
作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの
855日目の記事である。

執筆年月日 2000・09・09
ブログアップ日 2016・06・17





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狂いの因子9:ラッシュアワー [コラムエッセイ]


「狂いの因子9:ラッシュアワー」


ラッシュアワーですぐイメージできるのは、
朝の満員電車だろう。


rushhour.jpg


読者の方は、
満員電車が都会でどのくらい続いているか、
ご存知だろうか。


私の経験ですら、
少なくとも30年(現時点では50年)以上
変わらずに続いている、といえる。


私はずっと東京近郊に住んでいるので、
他の大都市や近郊については知らないが、
何と、
30年(現時点では50年)以上
ほとんど何も改善されていない、
といっても過言ではないだろう。


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国や地方行政は無関心だったのだろうか。


都市計画とはいったい何だったのだろう。


また、
狂気の満員電車に30年(現時点では50年)
以上耐えている私たちも、
ある意味では異常といえるかもしれない。


私は、
知り合いのヨーロッパ人に
たった一回だけ、
満員電車を体験させた。


エネルギッシュな彼にして、
「こんな思いは一生に一度で充分だ」
といわしめた異常な経験を、
私たちは日常茶飯でやっているわけだ。


決して尋常とは思えない。


不可思議で異常な生活上のインフラに対し、
ほとんど文句を言わないのが、
私も含めた日本人だ。


私たちは、住みづらい世の中で
黙々と働き続けてきた。


結果として何を得たのだろう。


こぢんまりとした一戸建ての家か。


戸外に不快を吐き出すエアコンの快適さか。


ほれぼれとするデザインの高級車か。


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依然としてラッシュアワーは続くのだろうか。


いつまでもギスギスして、
一体どうなるのだ。


せわしなく騒々しい世の中に、
まだ我慢しなければならないのだろうか。


もうすこし日々の生活にゆとりを持ちたい。


おしくらまんじゅうで、
押されて潰されてしまう人生などまっぴらだ。


ラッシュするのもあと一回だけにしたい。


作家になるためであれば突進もやむをえまい。




私がこの記事をかいたのは、
16年前のことである。
当時サラリーマンであった私が
作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの
854日目の記事である。

執筆年月日 2000・09・08
ブログアップ日 2016・06・16





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狂いの因子8:競 争 [コラムエッセイ]


「狂いの因子8:競 争」


私たちは幼いころから、
競争に明け暮れてきた。


kyousou.jpg


おさまるどころか益々加速し、
すべてが過当競争になり、
恨みを残すような結果になるまで競っている。


人間社会でも、
ある程度の競争は必要だろう。


ただし度が過ぎれば、
勝った方も負けた方も、
決して気持のいいことではない。


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また現代の競争は、
勝った方がほんとうは敗者で、
負けた方が真の勝者だったりすることもある。


それだけ競争の仕組みも
複雑になってきている。


自分の他に人がいれば、
大小に拘わらず、
必ず競争関係は発生する。


特に親しい仲でも、
互いを啓発する意味で、
競争原理を取り入れたりもする。


良い意味での競争といえるかもしれないが。


私が応募する各新人賞や
小説コンクールなども、
競争に他ならない。


競争に負けた者が
人生の敗北者とは限らない。


逆のケースもある。


しかしどこかで勝者になっておかないと、
先がなかなか見えてこないことはある。


その典型が、サラリーマンの出世競争だ。


どこかで勝者になっていないと、
トップの覚えも悪い。


また敗れたとき、
敗者復活戦で蘇るためにも、
一度は勝っておく必要がある。


常に勝つことだけを念頭に入れ、
競争に励み、
自分の頭でもおかしくならない限り、
それは永遠に続く。


もう本能なのだろう。


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適度な競争はないのか。


そうなったら競争とは言えず、
進歩は止まってしまうのか。


人間は競争し続けて、
限りある人生を、
限りなく縮めている。


あたかも
寿命が延びたような錯覚に陥っている現代は、
単なる生きる時間稼ぎでしかない。


豊かな人生でなければ、
長生きする価値などないだろう。


適度な競争は、
過当競争を止めることから始まる
のではなかろうか。




私がこの記事をかいたのは、
16年前のことである。
当時サラリーマンであった私が
作家を目指し書いた
「サラリーマン千日解放」
というコラムエッセイの
853日目の記事である。

執筆年月日 2000・09・07
ブログアップ日 2016・06・15





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